桐と動輪2016年04月18日

伯父の葬儀が無事に終わりました。

ずっとボクのコトを「なおち」と呼び、我が子のように可愛がってくれた伯父。母親の実家ということもあり子供の頃は夏休みなどよく泊まりに行きました。
当時国鉄マンの伯父はボクが持って行った鉄関係の雑誌などを、晩酌しながら食い入るように読んでいたのを思い出します。特に「陸蒸気からひかりまで」なんかは数時間かけて…。

先に他界した祖母の話を一つ思い出しました。伯父の国鉄(当時はまだ鉄道省)入社の頃は、やはり庫内手からのスタートで連日の蒸気機関車磨きに明け暮れていたようです。もちろん真っ黒。
やがて貨物列車の車掌に登用されても真っ黒だった話ですが、戦後の北陸本線は貨物列車の1,000t輸送が始まったばかり。木之本-今庄間ではD51の三重連、倶利伽羅峠も改良前でE10が補機についていた頃です。
勾配区間で単線断面のトンネルには機関車の残した煙が充満して、乗務員には辛苦の連続でした。今では『サンダーバード』などが軽快に走りぬけてます。

国鉄がJRに変わった時、伯父は1週間泣き続けていたと聞きました。それだけ国鉄を愛していたのでしょう。今日の葬儀でボクは国鉄マンの証である「桐と動輪」をプリントアウトしたものを棺に忍ばせてあげました。
ボクに出来るコトはこんな程度でしたが、国鉄マンの誇りを持ったまま旅立って欲しかったのです。

伯父は旅立って行きました。カマは金沢機関区のエース、C57 5号機に違いありません。C57の1次形の中でも「SLやまぐち」で現役の1号機、かつて『かもめ』を牽いた11号機と並び称され、最後まで美しい姿を留めた名機です。

式場と斎場との道中には北陸鉄道石川線の踏切があります。車列はもちろんその踏切を渡らなくてはなりません。最期までレールと縁があったのだなと、ふと思った次第です。

さあ、湿っぽい話はここまでにしましょう。

夜はスカイシップで久しぶりにTuイントラの初中級クラスを受けてきました。リズムチェンジにターンにハイインパクトと難度も強度も結構あって、しかもキッチリ感も。中級や中上級のような派手さはなくても、十分にテンションは上がります。だいいち楽しめますよネ。

都合明日もお休みなんですが…なんか落ち着きません(笑)。