旅立った父2017年12月11日

金沢は朝から雨風共に強くなりました。涙雨にしてはいささか多かったようですが、父親の葬儀、無事終えました。

思いがけずボクの前の職場からもご参列頂き、感謝に堪えません。人と人との繋がりって大切だなと思います。

ご厚情、ありがとうございました。

ぼちぼち元の暮らしに戻っていきたいところですが、年金や国保など手続きがいっぱいあって、しかも不慣れな事ばかり。まあこちらもぼちぼちやっていかなければなりませんネ。

エアロしたいな。

今日はこれにて休みます。

鎮魂2017年12月05日

父が他界しました。命の灯が静かに消えていきました。

理不尽な扱い2017年11月28日

久しぶりに朝から晴れて、しかも暖かな日になりました。

しかし世間の風は冷たく吹き付けました。元の会社から離職票一式が届いたのでハローワークに行ってきたんです。

もともと両親の介護と世話が理由で退職を決め、実際10月に入ってからというもの父親の病状は、主治医もビックリしたほど急速に悪化していきました。これは前に書いた通りです。

ハローワークではそのことをまず相談しようと思ってました。まず受付で離職は介護が理由である旨を記入したものを渡し、続いて担当者との面談です。

ところが面談になると介護の話を切り出す前に「これが給付金ね」と鉛筆書きのメモを渡されました。単なる自己都合退職と全く同じ扱いでした。説明会と失業認定日の事を聞かされ、通り一辺倒にハイおしまい…となりかけたのです。

介護など生活の急変があれば特定理由離職者の扱いになり、失業保険の給付期間が大きく異なるのです。そのために両親の介護保険証や先日父親が入院した時の療養計画書などのコピーを用意していったのです。

しかし担当は「介護は関係ない」「それなら給付時期を遅らせることなら出来る」と聞いてくれません。資料は見てももらえませんでした。

埒が明かないので一旦帰宅しました。しかしこのまま泣き寝入りするのも悔しい話です。石川労働局に電話し、事情を話しました。労働局からハローワークに問い合わせてもらい、改めて連絡が来ることに。

しばらくしてハローワークから電話がありました。

ところが「通常の自己都合退職と同じです」と自信ありげな、いたって断定的な答えでした。

ハローワークからの資料には特定理由離職者の条件が書いてあります。その件をもう一度問いただすと、ようやく門が開きました。事情を話しているうち、ハローワーク側の見解がいかに理にかなったものでないか、よく判りました。これなら認めたくないはずです。

ハローワークは受益者の保護という大事な事を忘れていたようです。

説明会の時に改めて面談となり、まだ最終的に決まってはいませんが、人間諦めは禁物。

30th Anniversary2017年10月25日

今日10月25日はボクたちの結婚記念日。30回目を迎えました。

30年前、10月下旬としては珍しく汗ばむ陽気の日でした。今は営業を終えた金沢都ホテルで式と披露宴、まだ地平だった金沢駅から新婚旅行に出発したのでした。まだ昨日の事のように覚えています。

節目となる今年は北海道へ旅行…と一度は思ったんですが、両親、特に父親の具合などを勘案すると、とても行けませんでした。
今日も父親はほぼ終日ベッドの上。今月に入りリビングで過ごす時間がだんだん少なくなってきました。

デイサービスから帰ってくる母親を迎えるのだけは、今のところ父親に任せていますが、それも時間の問題かもしれません。そうなるとボクたちが午後のレッスンに行ける回数も減ってしまいますが、致し方ないでしょう。

結局、記念日はいつもどおりの水曜日。

午前中は用事で出かけ、午後はスカイシップでYhイントラの初中級クラスを受けてきました。

水曜としては今月のシメ、軽いジョークも交えながらコリオを組み立て、ターンやアームスなども全部入った完成形。テンションも上がり身体もバッチリ使えました。

ラストラン2017年09月30日

今日は秋晴れの爽やかな日になりました。

そんな空が後押ししてくれたような気がします。

さて、ボクは今日の夜勤をもって退職するコトを決めました。すでに届も会社に提出、了承されていて後戻りは出来ません。

29年前に今の職につき、この13年余りはほとんど夜勤を続けてきましたが、最近ふと「自分のために、そして家族のために何をしてこれただろう」と疑問を持ちました。
多くの同業者は4日サイクルで「日勤、夜勤、明け、休み」の勤務を取っています。確かに夜勤に就いた頃は同じ形でしたが、数年後に夜勤中心の3日サイクル「夜勤、明け、休み」に変わり、しかも肝心の休みが土日祝日に重なると、日勤者が休みのため、代わりに日勤をすることが多くなりました。

年末年始もGWもない、過酷な生活が始まったのです。

夜勤を始めてまだ浅い頃は夜勤明けで帰ると泥のように眠ったものです。気が付くと夕方だったコトも。そのうち身体を壊しかけました。下痢が1ヶ月以上も続き、疲れているのに逆に寝付けず不眠に悩まされました。自律神経などメタメタになっていたのでしょう。

その後どうにかペースが掴めるようになったものの、3日に1回はまともに眠れない日々。

#2(妻のことです)や両親あって続けられた夜勤。しかし数年前に転機が訪れました。母親の認知症です。最初は「ちょっとおかしいな」程度だったものが徐々に症状が現れ、今では要介護1となって家事は#2が全てを負担しなければならなくなりました。
加えて父親も持病と高齢化で元気がなくなり、この7月から要支援1です。最近は半日以上床につくこともしばしば。今介護度を見直すと、もっと重度でしょう。

母親はデイサービスを利用していますが、父親はなかなか首を縦に振りません。

こんな状態では両親の介護や世話を#2だけに求める事は出来ません。幸いボクが夜勤者なので、逆に日中一緒に行動する事が出来ていたのですが、そろそろ限界が見えてきました。というより、ボクが#2に負担をかけ過ぎていたのです。

#2を追い詰めていた自分を恥じました。

定年まで4年余り、会社は更に65歳までの再雇用も出来ますが、元から辛い夜勤を続ける気はなく定年で辞めることを決めてました。

そこで自分を振り返ってみると、勤務のためにろくな休みも取れず、出来なかったこと、行けなかったこと、そんな事ばかりが思い出されました。今までの人生がとてもちっぽけに思えました。
無理をして仕事を続け、ずっと後悔を積み重ねる位なら、ちょっと早くても職を辞し、自分や#2のために、そして両親のための時間を持つほうがよっぽど幸せではないかと。残る人生、もっと楽しまないと。

今夜がラストランです。

桐と動輪2016年04月18日

伯父の葬儀が無事に終わりました。

ずっとボクのコトを「なおち」と呼び、我が子のように可愛がってくれた伯父。母親の実家ということもあり子供の頃は夏休みなどよく泊まりに行きました。
当時国鉄マンの伯父はボクが持って行った鉄関係の雑誌などを、晩酌しながら食い入るように読んでいたのを思い出します。特に「陸蒸気からひかりまで」なんかは数時間かけて…。

先に他界した祖母の話を一つ思い出しました。伯父の国鉄(当時はまだ鉄道省)入社の頃は、やはり庫内手からのスタートで連日の蒸気機関車磨きに明け暮れていたようです。もちろん真っ黒。
やがて貨物列車の車掌に登用されても真っ黒だった話ですが、戦後の北陸本線は貨物列車の1,000t輸送が始まったばかり。木之本-今庄間ではD51の三重連、倶利伽羅峠も改良前でE10が補機についていた頃です。
勾配区間で単線断面のトンネルには機関車の残した煙が充満して、乗務員には辛苦の連続でした。今では『サンダーバード』などが軽快に走りぬけてます。

国鉄がJRに変わった時、伯父は1週間泣き続けていたと聞きました。それだけ国鉄を愛していたのでしょう。今日の葬儀でボクは国鉄マンの証である「桐と動輪」をプリントアウトしたものを棺に忍ばせてあげました。
ボクに出来るコトはこんな程度でしたが、国鉄マンの誇りを持ったまま旅立って欲しかったのです。

伯父は旅立って行きました。カマは金沢機関区のエース、C57 5号機に違いありません。C57の1次形の中でも「SLやまぐち」で現役の1号機、かつて『かもめ』を牽いた11号機と並び称され、最後まで美しい姿を留めた名機です。

式場と斎場との道中には北陸鉄道石川線の踏切があります。車列はもちろんその踏切を渡らなくてはなりません。最期までレールと縁があったのだなと、ふと思った次第です。

さあ、湿っぽい話はここまでにしましょう。

夜はスカイシップで久しぶりにTuイントラの初中級クラスを受けてきました。リズムチェンジにターンにハイインパクトと難度も強度も結構あって、しかもキッチリ感も。中級や中上級のような派手さはなくても、十分にテンションは上がります。だいいち楽しめますよネ。

都合明日もお休みなんですが…なんか落ち着きません(笑)。

触れない本質2016年02月03日

今日は節分。豆まきに恵方巻にと季節の話題があちこちから聞かれました。夜勤から帰る時はまだフワフワと、しかし青空から雪が舞っていたのに、そのうち止んだみたいです。

夜はスカイシップでYhイントラの初中級クラスを受けてきました。新しくなったコリオは、つい冬場に溜めこみがちな脂肪を燃やすには至って効果的。適度な難度に高めの強度。もちろん体幹を要求されます。
1週目にしてあれだけ…さて来週以降もお楽しみですネ。

今朝からTV各局では清原選手の逮捕について取り上げてました。

覚せい剤の使用はもちろん犯罪です。しかし薬物依存という観点ではどうなのでしょう。どの番組も、どのコメンテーターも触れてはいませんでした。

薬物依存はそもそも犯罪ではなく病気なのです。脳が薬物のもたらす快楽を覚えてしまうと、やがて耐性が出来あがり量がどんどん増えてしまいます。結果薬物を求めてしまうのです。

その薬物がどんな種類のものかで、病気とみなされる場合もあれば、犯罪とみなされる場合もあるということです。麻薬や覚せい剤など違法性の高いものは犯罪である一方、堂々と法に触れないような薬物が大量に出回っているのも事実。

現役引退、指導者として球団から誘いがなかった、離婚…彼には薬物依存となる鍵がいっぱい重なったのでしょう。

単に犯罪者として非難するだけなら簡単です。しかし本質はもっと違うところにあったはず。2年も捜査していたなんて簡単に言いますが、それよりも救いの手を差し伸べるチャンスはいくらでもあったはず。彼自身も一人の患者として本当は助けを求めていたのかもしれません。

沖縄 慰霊の日2015年06月23日

相変わらず大気が不安定で、突然の雷雨が全国各地を襲っています。金沢は幸い思わせぶりに終わり、夕方には青空に変わりました。

夜勤を終えて帰宅。今日はのんびり過ごし、休養に専念。

今日6月23日は沖縄慰霊の日。太平洋戦争で日本で唯一地上戦があった沖縄で、その悲惨な戦いにピリオドが打たれた日です。一般にいうところの終戦記念日とは異なります。

小学生の時に日本国憲法の三原則の一つ「平和主義」それに憲法第九条について学びました。戦後30年にも満たない頃です、両親を含め戦争を経験した世代も多く、日本が平和を希求するのは当然だと知りました。
奇跡的に大きな被害のなかった金沢において、それでも物資や食糧が枯渇して食事もままならなかった母の話や、泊まりがけで軍需工場に駆り出された父の話、戦地に赴き帰らぬ人となった伯父たち、栄養失調で幼くして他界した、叔父となるはずだった父の弟の話…。

金沢では警戒警報ばかりで空襲警報は稀だったと聞いています。しかし沖縄では無差別攻撃により民間人の多くが命を落としたのです。想像のつかないような話です。それだけに心が痛みます。

あの戦禍を繰り返してはならないと、幼かったボクは学校で、家庭で学びました。それが今どうでしょう、国民不在のまま水面下で話が決まっていて、憲法の意味を強引にも変えようという動き。どうも矛盾しているように思えてならないのです。単にボクの憲法読解力がないだけでしょうか。

以前広島の平和公園、原爆資料館を訪れた時に思いました。国は国を守るのか、国家を守るのか、国民を守るのか。

戦後70年、まずは沖縄に向け合掌。どうぞ安らかに。

終戦の日2014年08月15日

朝からポツポツと雨。その後雨は一旦上がったものの、またフェーン現象になってしまい気温は一気に33℃に。

今日はお休みですが朝は職場で研修のため1時間ほど出勤。一旦帰宅したらまるで夜勤明けみたいな疲労感に襲われ、妙に調子が狂いました(笑)。急ぎ支度を整え、午後はスカイシップでYhイントラの初中級クラスを受けてきました。

コリオは先週と同じでしたが2週目とあって少し早目のコリオ展開、その甲斐あってメンバーさんの完成度も高かったようです。ラスト通しなんてスタジオじゅうピッタリ息が合っていたように感じました。ストレスなく動けて身体もスッキリ。

さて今日は終戦記念日。レッスン待ちの間、少し早めでしたがスタジオで静かに目を閉じ、黙祷を済ませました。

夜、珍しく父が終戦の頃の体験を話してくれました。父は終戦を学徒動員されてた今のコマツ粟津工場で迎え、伯父(父の兄)は美保の海軍航空隊で迎えたそうです。もっとも父は予科練に入れる年齢でしたが、その頃まだ身体が小さく入隊出来なかったとか。

30年ほど前、病気で他界した伯父。予科練へ行けなかった父。もし事情が変わっていたら二人とも戦地で最期を迎えていたかもしれません。今、ボクもいなかったでしょう。

ボクが子供の頃は、今に比べればまだ「戦後」だったのかもしれません。今当たり前のものが贅沢品で雲の上の存在でした。来年は終戦70周年の節目を迎えますが、終戦20年そこそこの頃とは世の中も変わったなあと、つくづく感じます。

変わってはならないのは、恒久平和への願いだけ。

気分は…ラストラン2014年06月30日

ここ数日続いた雨も今日はその心配もなく、代わって夏空みたいなカンジになりました。

長く続いた夜勤も今夜が最後。まるで夜行列車のラストランにも似た気持ちです。もしかしたら青い客車たちは今夜のボクみたいな、ちょっと寂しい思いで旅立って行ったのかもしれません。

といっても仕事が日勤に変わるだけで、そんなにセンチメンタルになる必要もないんですが…むしろ国際線から晩年国内線に転向したJALのB747-146Aや、ANAのB747-281みたいなものでしょうか。夜を徹して飛び続けたヒコーキが、日中だけの国内線に変わるみたいな。

ここまで支えてくれた#2、家族、仕事仲間たち…感謝しています。

未曽有の豪雨、深夜・早朝の大トラブル…今はいい思い出であり、いい経験になりました。幸い今夜は穏やかな天気のようで、胸をなでおろしています。

10年前、夜勤に就いた頃は慣れない夜の職場に違和感を感じたものです。みんな帰ってしまい、静けさの中でたった2人での仕事。トラブルが起こったらどうしようと不安になったこともありました。

今夜は、全部が走馬灯のように流れていきます。

さて仕事の話はここまでにして、先月の明治村への旅を「旅日記」にまとめました。こちらです。ご笑覧頂ければ幸いです。